コミュ力の高さとは、「相手のそのままの表現を“いい”と決めること」。「いもいも」井本陽久 × 「コルクラボ」佐渡島庸平対談
「コミュニケーションがうまくなるとは、相手のそのままの表現を“いい”と、まず決めること」
こう語るのは、「教えない授業」で子どもたちや保護者から信頼を得る、イモニイこと井本陽久さん。井本さんが主催する「いもいも」というユニークな子ども向けの教室は、「自分で考えるのがどんどん楽しくなる授業」で知られています。
そんな授業をつくる井本さんは、あるがままの自分でいられる対話を学びの場の前提にしているそうです。
冒頭の言葉に、井本さんはこう続けます。「相手に対して、『それでも(あなたは)いい』ではなくて、『それがいい!』と抱く心って、あるじゃないですか。後者の心は、相手を受け入れているから」
井本さんにとっての学びや生徒との関係、「あるがままでいられる場」のつくり方から、人と人が真に関わるために大切なことを考えました。
井本陽久(いもと・はるひさ) いもいも教室主宰/栄光学園数学科講師。
1969年生まれ。栄光学園中学高等学校を卒業後、東京大学工学部進学。卒業後、母校である栄光学園の数学科の教員に。生徒と共に児童養護施設で学習ボランティアを続けているほか、フィリピンのセブ島でも公立小学校や施設での学習支援活動を続けている。 2019年より、非常勤講師に身分を変更して、いもいも教室に軸足を置く。その生き方と活動は、おおたとしまさ著『いま、ここで輝く。』(エッセンシャル出版社)やNHK総合『プロフェッショナル仕事の流儀』で詳しく紹介されている。
佐渡島庸平(さどしま・ようへい) 編集者。コルク代表。従来のビジネスモデルが崩れるなかコミュニティに可能性を感じ、自身で学ぶべく2017年にオンラインサロン「コルクラボ」を立ち上げる。なおコルクラボでは、年に数回不定期でメンバーを募集している。
「正しい」だけでは、もったいない
佐渡島(以下、サディ)
イモニイ(井本さん)の代名詞ともいえる「教えない授業」は、どこから始まったのですか?
井本さん(以下、イモニイ)
「学び」とは、単なる反復練習などでは絶対にない。この確信めいたものは教員になった1年目からありました。
というのは、自分が中学・高校生だったころ、とにかく勉強をしていました。学校で教わる、いわゆる正解を導けるようになるため学習です。成績は良かったものの、「学んでいる」実感はまったくありませんでした。学校の英語の成績が良くても、英会話ができないのと同じです。
そんな学校から要請される教育を、誰よりも6年間実践したからこそ、宿題を解いて正解を導くようなことは何の意味もないとわかったんです。そんな原体験から、学びに対する自分の考えを、誰に教わるでもなく試行錯誤していました。
サディ
具体的には、どんな授業内容だったのですか?
イモニイ
宿題を出して正解を教えるのではなく、生徒たちの回答を、授業でシェアします。生徒たちはそれぞれ独自の考え方で宿題に取り組むので、別解が出ることも多くあります。そんな教科書通りではない答えの導き方をシェアすることで、それに触れた周囲の生徒たちも驚きで心を動かされたり、新たな気づきを得て学びを深めたりするきっかけになります。
イモニイ
独自の答えを、みんなが承認する。回答がシェアされた生徒にとって、教員が褒めるよりもうれしいと感じるものです。その繰り返しによって、生徒たちは正解だけではなく、問題の解き方に興味を持つようになっていきます。
生徒が自分で「こういうやり方があるんじゃないか」と気づいて、周囲がそれをすごい!と感じるような授業がしたい。正答を伝えることはもったいないし、ぼくからは答えを言わない。正解するためだけの考え方には関心はなく、プロセスこそおもしろいんです。
サディ
ティーチングより、ファシリテーション役割に意識的ですか?
イモニイ
進行役より、積極的に価値付けしていくという感じです。生徒たちの答えの中には、誤答もあります。でも、いい誤答というのもあるんです。普通なら誤答として終わってしまうものでも、「いいじゃん」「おもしろいね」と価値付けをして、生徒たちに提示することを意識しています。
サディ
以前この対談のゲストに、「クリエイティブ・ラーニング」の研究者である慶應義塾大学の教授・井庭崇さんが来てくれました。井庭さんは「ティーチングでもファシリテーションでもなく、ジェネレーターとなる人がみんなが考える場を生成する」とおっしゃっていました。
イモニイの役割は、ジェネレーターというのがしっくりきます。編集者にも、限りなく近いと感じますね。
「まとまらなさ」からの学びがおもしろい
サディ
みんなで答えをシェアしながら学んでいこうとする場合、たとえば数学や英語、あるいはマンガだったりと、ジャンルを特定したコミュニティで学んでいくほうがよいのでしょうか?
イモニイ
コミュニティに関して、ジャンルを特定することで同質性をもった人たちが集まる良さはありますよね。なぜなら、目的や意見が一致しやすいからです。
一方で、ぼくが考えている学校の素晴らしさとは、そもそも目的を持っていない人も集まる場であることなんです。学校での生活には、時間や場所がふんだんにあります。そのような場で1つの目的や目標、結果にとらわれず誰も予想しない出来事に出会います。
サディ
目的がないゆえに、縛られないですよね。
イモニイ
無防備でいることで、それぞれの考え方やお互いの間違いに触れながら、答えやアイデアを試行錯誤していく。そのプロセスが同時多発してつながり、機能していく状況が授業になります。
つまり、まとまらなさがあることが学校のおもしろさ。コミュニティの中で、唯一の正解ができてしまった途端に、思考停止に陥りかねないと考えています。
自分と相手の「無防備」を受け容れることから始める
サディ
数学の教員からスタートし、現在はいもいも教室の主宰に活動の軸足を移されています。最近では、山奥で遊び尽くす野外フリースクール「森の教室」も始めていますよね。意識の変化はあったのですか?
イモニイ
何か違うことをやっている意識はないんです。生徒たちの「こうやってみたい!」「別のやり方を試したい!」といった息遣いのある気持ちに、スポットライトを当てたい。そこは変わっていません。
森の教室での活動は、極めて不親切な設計になっています。便利な道具は使いません。むしろ、手持ちが少ない状況で自分で考える。不便な環境の中では自分で何とかするしかありません。
サディ
不自由の中の自由、ですね。
イモ二イ
はい。そうすると、自然と無防備な自分を出すしかなくなるんです。無防備な自分を出しているときにこそ、学びがあると思っています。
サディ
「無防備な自分」や「ありのままの自分」とは、どういう状態なんでしょう?
イモニイ
「やってみたい!」という興味や「これが好き!」といった感情によって、夢中になっていることだと思います。そこには、誰かによく見られるためにうまくやろうといった意識はありません。さらには、無防備な人同士が向き合う場では、必ずおもしろい化学反応が起きるものです。
サディ
一方でお互いが無防備な状態同士で向き合うと、それぞれの価値観の違いに直面することがあると思います。場合によっては、違いに耐えられずに攻撃的になってしまうかもしれません。
お互いにどのようなコミュニケーションをしていくといいんでしょう?
価値観が異なる人とどうコミュニケーションをとるかが学びの本質
イモニイ
相手のそのままの表現をいいなと思えること、さらに言うといいと決めることがすごく大事。相手に対して、「それでもいい」ではなくて、「それがいい」と思う。まずは、相手を受け容れることからコミュニケーションを始めることです。根拠は要りません。
サディ
根拠があって受け容れるとは、その人自身ではなく、その人が持っている機能だけを受け容れていることになってしまいそうですよね。
イモニイ
そうですね。加えて、攻撃的になってしまうのは、「こちらの価値観が正しい」と決めつけている場合が多い。それだと、無防備とはほど遠い緊張状態にあります。相手に対して、正しいとかよく思ってほしいと気持ちもわかない状態が、コミュニケーションにおいて自然だと思ってます。
サディ
誰からもよく思われたいとか、みんなと仲良くしないといけない気持ちが先立ってしまうと息苦しくなってしまいますよね。
イモニイ
はい。仲良くなることを目的にコミュニケーションを取ろうというのは、かえって多様性を認めないことにもなりかねません。仲が良くない人、価値観が異なる人とどうコミュニケーションをとるか。どうやって暮らしていけばいいか。それ身につけることが、学びの本質だと考えています。
アイデンティティを関係性に委ねないことが大切
サディ
生徒との距離の取り方などで気をつけていることはありますか?
イモニイ
教員と生徒や、親子の関係は共依存になってしまう危険性が常にあります。ぼくは生徒との距離感においては、不必要に立ち入らないようにすることに気をつけています。ですので、少し冷たい印象と感じられているかもしれません。
イモニイ
たとえば親子の関係でいうと、子どもを愛して、励まし、喜ばせてあげていると親は思っている反面、それをすることで親自身が安心を感じていることがあります。
そのような状態においては、親から子どもへの依存が起こりやすいんです。依存していると、相手にも自分の存在が必要であってほしくなります。さらには、親からすると、子どもに対する心配が自身の安心感を得るための行為だということは認めづらい。
サディ
心配しているからある程度干渉してもいいと、親は思いがちですしね。でも、実はその時点で子どもの存在をないがしろにしてしまうケースもありそうです。
イモニイ
そうですね。表面的には良好な関係性に思えるので、共依存の実態に気づくことが難しいんです。これは、教員と生徒との関係においても当てはまります。
サディ
最近は、「ケアする」「寄り添う」という言葉がよく使われています。ただ、それがケアする側や寄り添う行為をする側のアイデンティティと結びついてくると不自然な関係性になってしまいそうです。
親子や教員と生徒の立場では、はじめから上下関係が生まれますよね。上下関係は、その関係性を変えていくことは簡単ではない。固定した関係性だと、共依存になりやすいのかもしれませんね。
所属するコミュニティを増やしていくことで、頼ることができる関係性も増やしたり変化させていくことが良いと思います。
前提の持ち方を変えれば不安は消える
サディ
唯一の目標があったり、関係性が固定化していると、たとえば偏差値のように能力を測る物差しがある感覚になってきてしまいます。そうなると、高い偏差値を取ることを目標として、計画を立てるようになっていきがちです。
サディ
それ自体は、既存の正解をうまく導くための努力であると捉えることもできますが、その目標・計画の立て方に対して、明確かつ論理的に疑問を投げかけることはなかなか難易度が高いですよね。
イモニイ
自分の人生だけ考えても、すべて計画どおりに今がある人はいないんじゃないでしょうか。一方で、人は一生懸命に計画どおりやろうとしてしまう。暗中模索からは脱したくなるものです。
イモニイ
教育という分野でも同様です。たとえば、みんなの学べる場をつくるにはどうすればいいかであったり、子どもへの対応はどうすればいいかだったり迷う人は多い。そんな手探りの状況では、ハウツーやアドバイスがほしくなります。
ただ実際のところ、ハウツーとしての正解を聞いたり、アドバイスを受けても、その通りにやったら絶対うまくいくとは質問した本人も思っていないことがほとんど。手探り状態でいること自体に、不安を感じているケースが多いのではないでしょうか。
サディ
不安は、自身が持っている前提と違うから感じるものですよね。たとえば、老後に2,000万円ないと生活が厳しいと前提を持つと、2,000万円をどう貯めるのかで不安に陥ってしまう。あるいは、働いていてもその仕事が自分にふさわしくないという前提があると、将来に対して安心できなかったり。
イモニイ
同じことは、受験でも言えますよね。いい学校に入学しないといけないという前提を持つと、合格できるか不安でしょうがなくなってしまう。そう考えると、世間の評価軸を前提として物事を進めることに違和感が出てきます。
サディ
世間で良しとされている能力や優秀さを図らずも手にした場合、その評価軸から離れることは簡単ではないところもあるでしょう。
能力があれば生きていける、そのために能力を高めていかないといけないという考えこそが、不安に変わっていってしまう。能力があっても、そこに執着しないで手放していくことで、生きやすくなっていけるのではないでしょうか。
【2人の対談を終えて】
当日はコルクラボのメンバーに加えて、井本さんのオンラインサロン「いもいも大人のスコーレ」の方々にも参加いただきました。笑いあり、ときに真剣に聞き入る会場の様子が印象的でした。
対談を聞いて、自分にはコミュニケーションのわからなさや不安があるにもかかわらず、それを認めたくない気持ちがあることに気づき息を飲みました。教科書通りの正解から少し間合いをおいて、あるがままの自分、家族や周囲との関係性がどんな別解になっていくのかを楽しんで暮らしたいと思います。
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